過ごすはずのなかった夏
昨年の冬、私は春になったら死のうと決めて生活を送りました。ですが、そんな私がいま夏を生きています。
死ぬ前にやりたいことを考えて、いくつか実行しました。
下手くそでも自分らしい芸術活動をすること。絵を描くこと、小説を描いてみること、詩を考えてみること。憧れの楽器を演奏してみること。
お金のことは気にせずにその時食べたいと思った物を食べて生活すること。
何人か会っておきたい人たちに会ってみること。 等々。
ですが、新年を迎えて少したった頃、死ぬはずの人間がこんなことをして意味があるのか、よくわからなくなりました。
「最後の晩餐」という言葉があります。もし明日死ぬとしたら最期に何を食べたいのか。よく聞く問答です。
でも、明日死ぬというのに何かを食べることに意味なんてあるのでしょうか。
何を食べたって、明日死んでしまうのだから。
だとしたら自分がしていることは、なんなのでしょうか。あと何ヶ月かで死ぬつもりなのに悔いのない人生を送ろうとしている。悔いがなくなったところで、そんな自分は消えてしまうのに。全く不可解です。
そんなことを考えていること自体が不毛なのかもしれません。人間誰しもいつかは死ぬんだから甲斐など消えてしまいます。
私が会いたいと思う人、有名な人、気にしてくれる人、嫌ってくる人。そんな人たちも100年もすればみんな死んで、忘れられていきます。
だとしたら、私たちが今、生きてここにいるということはどういうことなのでしょうね。
冬の終わりが近づいた頃、私は自分が生きる意味も死ぬ意味もよくわからなくなり、とりあえず自死を保留することにしました。
来月には足を踏み出してこの世にはいないかもしれないなと思いながら、なんとなく生きています。
3月には、昔からの友人が結婚したと聞いて新居に遊びに行きました。彼に会うのはもう最後になるんだろうな、結婚式には出られないかもしれないな、なんて考えながら。
そもそも、死にゆく自分が、「遊びにきてほしい」という友人の望みを叶えてあげる必要があったのでしょうか。
最後だし、結婚なんてめでたいことなんだから言うこと聞いてあげればいいんだ。そう思いながら今日まで生き延び、秋にある彼の結婚式に出るという返事までしてしまいました。
彼を含めて友人も家族もみんな、死ぬために自分らしく生きている私を知りません。彼らが知っている私は多分どこかで死んでしまいました。以前の自分のふりをするのはすごく窮屈で面倒です。
彼らの言うことを聞くのはもう本当に最後でいいのかなと思います。これから生きていくのだとしても。
私は今、過ごすはずのなかった夏を生きています。
知るはずのなかった楽しみを感じ、時に生きがいを持ち、想像できなかった世界を作っています。
そして、捨てたかった責任と苦しみが取り憑いてきます。
私が存在しない夏があったことなど、誰も知りません。
私の死とともに、彼らにさよならを告げたほうがいいのかもしれません。