platinum insomnia

元自殺志願者の世迷言

理解されないはずなのに

 恋人と別れてから、とある友達と五年ぶりに会った。

 

 その友達は異性なんだけど、家族とのしんどさとか漠然とした生きづらさとか、そういうことを話し合える友達で、できるだけありのままを見せてきた。

 生きるとか死ぬとか、そういう話もしてきた。

 

 でもあんまり会って話すことはなくて、メールをたまにするだけだった。

 気がついたら五年くらい会っていなかった。全然そんな気がしなかった。

 

 お互い「全然かわらないね」なんて言い合いながら、五年間を埋めて行った。結局時間は足りなかったから、私の失恋の話をゆっくりする時間がなくなってしまった。

 そして気づいてしまったことがあった。

 

 私は恋人や家族や友達に自分の気持ちをずっとわかって欲しかった。

 でも、話しても話しても誰にも理解されないんだろうなって思っていたし、そんな自分は変で孤独だから、これでいいんだと思って自分を納得させていた。

 

 自分の感性を磨くことの大切さや、家族といて息苦しい感じ、この世界とか社会に溢れているよくわからない生きづらさ。そして、自分らしく生きられないのなら死んでいるのと同じような気がしてしまうこと、自分にとっての何か特別なものを探していないと途端に自分が無価値に思えてしまうこと。自分の考えで行動をしないと気が済まないこと。なんでも自分のやり方でやらないとどうにもならないこと。

 そのくせ、人に合わせてしまうことも上手で、人の話を聞いて、いうことを聞いて、合わせてとても疲れてしまうこと。死にたいくらい疲れてしまうこと。

 恋人に何年も話してきた。わかって欲しかった。でも自分は宇宙人のようなものだから理解されなくて仕方がないんだ、これでいいんだって思い込んできた。

 そう思うことが、自分を抑制し、期待して裏切られ傷つくことから心を守る予防線だった。

 

 だけど、その友達と話して行くうちに自分の気持ちがしっかりと伝わって理解されていることがわかってしまった。

 たった三時間か四時間話したくらいで。

 

 ここ五年くらい苦労していたこと、自分を生きづらくしていたこと。そのために対処してきたこと。

 それがうまくいき始めたけど、恋人に別れを告げられたこと。つい、恋人に頼ってしまって多分うまくいかなくなったこと。

 そういうことがとても深く伝わってしまった。わかってもらえてしまった。

 

 そして、友達がここ何年も辛かったこと、最近つらくおもって生きていることも、自分の身に迫ったことかのように伝わってきた。

 違う人間だからわかり切れるわけじゃないし、所詮自分のことではない。

 だけど、深く深く繋がった気になった。

 少しだけ、涙が目に滲んだけど、泣かないように気をつけた。

 

 会って、話して、家に帰るまではとても嬉しかった。

 いままで誰かにわかって欲しかった気持ちを受け止めてもらえた気がしたから。

 同じマイノリティの道をゆく仲間がいることを確認できたから。

 

 だけど、時間が経つにつれて得体の知れない怖さみたいなのが出てきた。

 後悔はしていないけど、深く入ってしまったことに気がついた。

 

 誰かと話しても、どうせ伝わらないからいいんだって思ってきた。

 いくら話しても、やっぱり自分はどこか異端で理解なんてされないからいいんだって思ってきた。

 わかってもらうことを諦めることができた。

 心が繋がることを諦めることができた。

 でも、繋がってしまった。しかもすごく短い時間で。

 

 心の奥の方にある気持ちが合うなんてことは、幻想だと思っていた。

 その幻想が壊れてしまった。幻想に生きられなくなってしまった。

 そして、気持ちが合う怖さみたいなものが芽生えてしまった。

 自分の価値観が変わって行くのを感じた。

 

 友達と今すぐ会ってもっと話がしたいと思った。

 分かり合えないところを見つけたいのか、もっとわかってほしいのかは、分からない。

 たまに話していた性の話とか、才能の話とか、恋の話とか。愛の話とか。自分の醜い話とか。そういう話をしたくなった。

 

 でも同時に、会うのが怖いと思った。二人の距離が近づいて行くのが怖いと思った。もしもっと分かり合えてしまったら、分かり合えることが増えたら、と思うと喉が締め付けられるような気がする。

 

 あんなにわかって欲しかったのに、わかって欲しすぎて人間関係が壊れたのかも知れないのに。そのくせ、諦めた気持ちもあったから中途半端でこじれてしまったのに。

 

 いざわかって貰えたかもしれないと感じたら、怖くて怖くて、自分の価値観が変革している感覚に頭がくらくらする。

 

 それから、軽くメールはしているけど、表面上のことだけで深い話はしていない。

 あのとき相手はどう思ったのか、今はわからない。

 でも焦ることはないのかも知れない。きっとお互いの心に整理ができたら、やっぱりまた向かい合うしかないような気がするから。

 また会って、裸の心を見せないといけない気がするから。

姉の家

 姉の家に引っ越してきて、五日ほど。ここでの生活にも慣れてきました。

 派遣の仕事は来週からなので毎日ゆっくり過ごしています。

 

 姉家族の生活は、子供達中心。子供に合わせて生活が作られています。元気で、自由で、まだ少し不器用な子供達。

 子供に振り回されている姉夫婦は、大人にはとても寛容で何にも気にしません。

 

 夜ご飯は子供達と同じものならと用意してくれますし、洗濯機も毎日まわすからと一緒にやってくれます。

 昼ごはんは好きなものを自分で作っていいと言ってくれるし、夜ご飯も足りなかったら自分で好きに作ったり買ってきたり追加していいとのこと。

 適度に放っておいてくれるし、とりわけ何かすることを求められているわけではないのでとても楽です。部屋で作業していると、子供達が来て作業が全然できなくなったりもしますが、、、、

 

 これが実家だったら、両親はこちらを気にしすぎて、やることに口をだされ、毎日息苦しかったでしょう。

 姉も同じ親の元で育ったからなのか、あまり束縛を感じません。私と同じ苦しみを持ち、さらに子供の自由さを愛し、寛容さを手に入れたのかもしれません。

 姉は、自分のことをちょっと変わっていたり、苦手なことが多い人間だと思っています。でもそんな自分に対する劣等感をあまり感じません。

 旦那さんに出会い、自分にOKを言えるようになったのかなぁ。良いところはゆっくりと見習いたいものです。

 

 昔の自分だったら、こんなありがたい環境を作ってくれる人たちにすぐにお返しをしなければいけないと思い、自分を殺してでも家事の手伝いやおつかいをしたと思います。でも、そんな自分だったから言葉通り死ぬ手前まで自分を追い込んでしまった。

 

 だから今は返さなくていいと思っています。貸しとか借りとかでもなく。これから先の先、姉夫婦が困った時、姉の子供達が途方にくれた時、他の身近な人がどうしようもなくなったとき、寛容さを持って自分にできることをしてあげられたらいいと思っています。姉たちがしてくれているように。

 

 まずはそれができる自分になれるように、前を向いて歩いて行きたいと思います。

 

 自分らしく生きられる方法を探しながら、死にたい気持ちを死ぬ以外のやりかたで満たせるように、自分を生かせるように、生きてゆきたいのです。

引っ越し

 ついに明日引っ越しをする。七年住んだ家を出る。

 

 この七年、いろいろなことがあった。

 もう死んでしまおうと思ったのは一度や二度ではなかった。

 何日も何日も、ベッドから出られなくてヘトヘトになった。

 お腹が空いて食料を買いに行ったけど、外出するのに疲れ果てて帰ってきてから寝てしまうこともあった。

 周りの人の目が怖くなった。「変な奴が街を歩いているぞ」と思われているような気がして、息をひそめるようになった。

 社会人でも学生でも無い自分の儚さを知った。裸の自分の無意味さを思い知った。辛いから離れたはずなのに、社会から距離をとったら自分には何もなかった。

 

 何度も胃腸炎になって、四十度近い熱のなか、トイレに突っ伏した。死にたい気持ちと生きたい気持ちが一度にやってきて、心が弾けそうになった。

 たくさんの本を読んだ、アニメを見た、音楽を聴いた。人との関わりは避けるくせに、自分を助けてくれるのはいつも人が作ったものだった。

 いろいろな料理を作った。調子が良くなってからは食事が美味しくなった。料理上手になった。

 

 ある時は一日に何度も泣いた。大抵は悲しいことだったけど、何度かは嬉しさからくる涙だった。生きる喜びを実感できて泣いたこともあった。人と深く繋がれて泣いたこともあった。

 恋人とたくさんの時間を過ごした。いろんなものを見て、いろんなものを食べて、いろんな話をして、いろんなことをした。でももう別れた。

 

 初めてこの家にきた時、希望に満ち溢れていた。自分の未来に期待を持っていて、もしかしたら何かを成せるのではないかと思っていた。青年になって、お酒が飲める歳になって、やっと挑戦できるんだと勇気を持って歩を進めた。

 でも、気づいたら足を進められなくなっていた。そればかりか、ベッドからも起き上がれなくなっていた。食事をするだけで、目を覚ましていられなくて気絶するように寝てしまうようになった。知らないうちに、心も身体も誰かのものに取り替えられてしまったような感じがした。

 成功も失敗もしないまま、良くわからないうちに未来を進められなくなった。身体も時間も凍りついて、どうしたらいいのかわからなくなった。そんな状態のまま四年半も経った。

 

 ちょっとずつ、ちょっとずつ調子がよくなっていって、やっと働けそうになった。すごく調子が良くなった。親からすごく距離をとった。自分がしたいことがわかりかけてきた、趣味かもしれないけど。そして、さらに調子が良くなってきた。

 自分の人生を必死に生きるために頑張る気になった。頑張れると思った。恋人と一緒になって人生を豊かにして行けるんだって思った。光ある未来がまた見えてきた。

 でも、直前になって恋人と別れた。一緒にいられないと言われた。同じ空間に居たくないとまで言われてしまった。

 

 それもこれも全部この街のこの部屋で起きたことだった。

 そんな部屋を明日やっと出ていく。

 こんな歳になってこんなことを言うのは変なのかもしれないけど、言う。

 やっと私の青春が終わる。

 鮮やかで、綺麗で、透明で、光り輝いていて。胸にまとわりついて、頭に靄をかけて、胃をもぎり取ろうとするかのような青春がやっと終わる。

 何が変わったわけでも無いし、なんならまだ独り立ちしたとも言えないような状態かもしれないけど、でも終わる気がする。

 

 明日引っ越しをする。七年住んだ家を出て、あの頃抱いた夢と、終わるに終われなくなってしまった青春を終わりにする。

偶然の連鎖

 人のことって本当にわからない。自分でさえ、心の奥に何が眠っているのかわからなくて、いつの間にかそれに踊らされている。何かのきっかけでそれが刺激されちゃうと、もうどうしようもなく突き動かされちゃったりする。

 

 神とか、運命とか、そういうものは信じないけれど、自分ではコントロールできない類のものはある。恐ろしいほどの偶然っていうのもきっとこの世界にはある。

 過労で倒れてから、人との交流も少なくなって、鬱憤も溜まって、流れがない時間が長かった。それから四年も経って今、溜まっていた何かが弾けて大きなうねりのようになっている気がする。

 偶然が偶然を呼んで、思いも寄らないことに出会ったりする。

 

 先月、ふと思い立ってある喫茶店に行ってみたら、とある友達に五年ぶりぐらいに偶然出会った。何日か経ってからその友達と会って飲んだんだけど、食事が合わなかったのかお腹を壊してしまった。近所の病院に行って帰るとき、コンビニに寄ったら数年ぶりに知り合いに会って、少し話をした。とても良い人なのでいい気分になって帰ることができた。

 

 大したことじゃないんだけど、たまたま喫茶店に行かなければ友達に会うこともなかったし、飲みにも行かなかったし、お腹を壊して病院にも行かなければ、その近くのコンビニにいくこともなくて、知り合いに会うこともなかった。

 

 こんな風に偶然が連鎖することが最近多い気がする。

 スピリチュアリティっていうのじゃなくて、実は現実ってそういうものなのかもしれないって思ってきている。

 

 偶然とか奇跡みたいなことが起きると、本当なのか?って思ってしまうけど、実はこの世界はドラマとかアニメとかよりも奇想天外にできているんじゃないかって、ここのところは考えている。

 

 この連鎖が起きている時って、今までは不安で仕方なかったこととか、つらくて帰りたくなるような時でも、不思議と落ち着いていて目の前のことに集中できるんだよね。治っていくとこういうことになるんかなぁ。

餞別、もしくは心霊現象のような何か

 最近本当に色々なことがありました。

 

 親から完全に離れて生きていくと決めて、実行した。恋人が一緒に生きていってくれると話してくれて、とても気持ちがスッキリして、四年間悩んだ慢性的な疲労がほとんど消えた。

 引っ越しの準備をして、派遣の仕事を探して、やっと自分の人生に責任を持って、未来に向かって時間を進められると感じて嬉しかった。生きる喜びを生まれて初めて感じた。

 

 でも引っ越し直前になって恋人と別れた。六年付き合っていた。

 もう嫌いになったということだった。一ヶ月前にはあんなに楽しく賃貸の内見をして、どんな生活を作りたいか話していたはずなのに。

 きっと頼り過ぎてしまったのだろうと思った。

 最後に別れのハグをしようとしたら、完全に頭がおかしい人間を見るような目でまっすぐ見られて「いやだ」言われた。もう同じ空間にもいたくないらしい。

 昨日のことだった。

 

 何年間も、身体も気持ちも凍りついていた。そんなところから抜け出して、なりたい状態になれそうだと思っていたのに、いざ近づいてみたら違う結末が待っていた。

 

 善悪とか、好き嫌いとか、そういう問題じゃなくて、運命とか心霊とか災害とか。そういうコントロールの効かない神仏の領域のようなことが起きてしまったように感じている。

 自分がとても欠落した人間だから、鈍感すぎたのかもしれないし、、、、。とにかくおかしいのかもしれない。だって親を捨てるようなことをしでかしている人間だから。そんなことを考えたこともない人生を生きてきた人には、やることなすことが変に思えてしまうのかもしれない。

 

 恋人とは離れることになってしまったのだけど、産まれて初めて自分の人生に責任を持って自分らしく必死に生きたいと思えた。それは本当で、この一ヶ月くらいは生きていると心から実感できた。だから餞別だと思って、この気持ちを持ってこれから頑張っていく。

 

必死に生きていく。

過ごすはずのなかった夏

 昨年の冬、私は春になったら死のうと決めて生活を送りました。ですが、そんな私がいま夏を生きています。

 

 死ぬ前にやりたいことを考えて、いくつか実行しました。

 下手くそでも自分らしい芸術活動をすること。絵を描くこと、小説を描いてみること、詩を考えてみること。憧れの楽器を演奏してみること。

 お金のことは気にせずにその時食べたいと思った物を食べて生活すること。

 何人か会っておきたい人たちに会ってみること。 等々。

 

 ですが、新年を迎えて少したった頃、死ぬはずの人間がこんなことをして意味があるのか、よくわからなくなりました。

 

 「最後の晩餐」という言葉があります。もし明日死ぬとしたら最期に何を食べたいのか。よく聞く問答です。

 でも、明日死ぬというのに何かを食べることに意味なんてあるのでしょうか。

 何を食べたって、明日死んでしまうのだから。

 

 だとしたら自分がしていることは、なんなのでしょうか。あと何ヶ月かで死ぬつもりなのに悔いのない人生を送ろうとしている。悔いがなくなったところで、そんな自分は消えてしまうのに。全く不可解です。

 そんなことを考えていること自体が不毛なのかもしれません。人間誰しもいつかは死ぬんだから甲斐など消えてしまいます。

 私が会いたいと思う人、有名な人、気にしてくれる人、嫌ってくる人。そんな人たちも100年もすればみんな死んで、忘れられていきます。

 だとしたら、私たちが今、生きてここにいるということはどういうことなのでしょうね。

 

 冬の終わりが近づいた頃、私は自分が生きる意味も死ぬ意味もよくわからなくなり、とりあえず自死を保留することにしました。

 来月には足を踏み出してこの世にはいないかもしれないなと思いながら、なんとなく生きています。

 

 3月には、昔からの友人が結婚したと聞いて新居に遊びに行きました。彼に会うのはもう最後になるんだろうな、結婚式には出られないかもしれないな、なんて考えながら。

 そもそも、死にゆく自分が、「遊びにきてほしい」という友人の望みを叶えてあげる必要があったのでしょうか。

 最後だし、結婚なんてめでたいことなんだから言うこと聞いてあげればいいんだ。そう思いながら今日まで生き延び、秋にある彼の結婚式に出るという返事までしてしまいました。

 彼を含めて友人も家族もみんな、死ぬために自分らしく生きている私を知りません。彼らが知っている私は多分どこかで死んでしまいました。以前の自分のふりをするのはすごく窮屈で面倒です。

 彼らの言うことを聞くのはもう本当に最後でいいのかなと思います。これから生きていくのだとしても。

 

 私は今、過ごすはずのなかった夏を生きています。

 知るはずのなかった楽しみを感じ、時に生きがいを持ち、想像できなかった世界を作っています。

 そして、捨てたかった責任と苦しみが取り憑いてきます。

 

 私が存在しない夏があったことなど、誰も知りません。

 私の死とともに、彼らにさよならを告げたほうがいいのかもしれません。 

期待と特別と、そして恋愛観

 私とうつ病との争いは、突き詰めると、私と「特別」との戦いそのものなのではないかと思うときがあります。

 

 人は、誰かに期待をします。期待の種類には様々なものがありますが、極端なものに、諦めを伴った期待があります。

 自分はあることができない。この先できるようになることもない。自分は何かを持っていない。持つようになることもきっとない。そんな諦めを胸に孕むことからこの期待は始まります。

 自分は持っていない。でも自分が欲しい何かを持っている人がいる。将来持つかもしれない人がいる。そんな場合、人は他者に望みを持ちます。本質的に自分には不可能なことを、それが可能な誰かに望むこと。それがいま、私が話すところの期待です。

 そんな諦めから生ずる期待は、視点を変えれば、凡なる人間が特別な人間に送る願いのようなものなのかもしれません。

 

 特別という言葉を前にすると私は戸惑います。

 特別とは、周りのものと比べてはっきりと突出したもののことを表す言葉だと思います。他と違って優れている。それも格が違っていて、絶対的に秀でている。そんなイメージを持っています。

 私は、特別になりたいと思っています。ひょっとしたら自分は特別になれるのではないかと心のどこかできっと思っています。

 けれどそれが、おそらく精神の病に関わっています。

 

 私の母は、当然ですが、私より年老いています。若い私と比べたらつぼんだ未来を持っています。それゆえ、母は私に期待します。狭い意味での期待をします。

 形は違えど、父もそうでした。

 私の両親は、自分たちの諦めを消化しきれないまま、私に期待しました。

 自分たちよりも賢くあるように。自由を持てるように。そして、特別な何かであるように。特別になれるかもしれないという気持ちを諦めず抱え続けることを願いました。

 両親からもらった期待の種を捨てられないまま、数十年生きてきました。その生き方を選んだのは、自分です。

 

 心の奥底で思っています。私は特別になりたい。突出していたい。秀でていたい。

 でも、特別を求めていながらどうしたら自分が特別になれるのか良くわかっていないのです。

 私は学問をすることがきっと苦手ではありません。でも決して一番ではありません。学問が苦手な人からみたらもしかしたら私は「特別」なのかもしれません。しかしながら、私は自分のことを一向に特別だと思えません。

 たとえオリンピックで銀メダルをとるほど特別な人でも、上には上がいたら自分は特別なのだと思えないのでしょうか? 何かで世界一になっても他の分野で自分よりもすごい人が居たらその人は特別ではないのでしょうか?

 特別というのがよくわかりません。

 

 そして、特別に関してもう一つ私を困惑させる要素があります。それは恋人の存在です。

 恋人は私にこう話してくれます。「あなたは特別だ」と。でもこのときの特別は私が突出した能力があるという意味ではありません。

 むしろ、私は普通の人かもしれない。でも自分にとっては特別だ、と伝えてくれているのです。それは幸せな体験ですが、頭に靄を作ります。

 

 私の友人に「自分は何にも秀でたところがない。だから恋人ができると思えない。自信がない」と言っている人がいます。その人は、ルックスもファッションセンスも知力も間違いなく上の方であるのに、自分が絶対的な特別でないゆえに自信を持てないでいるように見えるのです。

 もしかしたら勘違いしているのかもしれません。特別だから恋人を作れる訳ではないのです。むしろ特別でないから恋人同士になったりする。そして徐々にお互いにとっての特別になっていく。恋愛とはそういうものなのではないのかと、今の私は思っています。

 

 話を、私にとっての特別に戻します。

 恋人ができると私は戸惑います。それは周りの人から抜きん出た能力である特別さ(絶対的な特別)と、恋人が私という人間を大切に思ってくれる特別さ(個人的な特別さ)が心の中でぶつかり、混濁していくからです。

 あるいは、特別な能力もない自分を無条件に愛していてほしい気持ちと、自分はもしかしたら特別な能力を持つ人間かもしれないという気持ちがぶつかり合うからです。

 こんなことで苦しくなるくらいだったら認めてしまえばいいのだと思います。「いいじゃないか。こんな平凡な自分を、持たざるものである自分を愛して、大切な時間をともに過ごしてくれる人がいるんだ。絶対的な特別さなんて求めず、望みを捨ててしまえばいい。私は凡人なんだ」と。

 でも、それが何故かできないのです。まさに病的なほどに。

 重い荷物が入った手提げ袋から手を離してドサリとするのを聴くだけのはずなのに、手が言うことをきかなくなるのです。

 

 もしかしたらうまく折り合いをつけることができるのかもしれません。でもその方法には未だに見つけられません。

 もしかしたら、この自己矛盾はうつ病の原因ではないのかもしれません。死にたい気持ちが消えても、不健全な不安に陥らなくなっても、私の心のなかでくすみ続ける呪いなのかもしれません。

 

 「特別」について考えるとき、人は自分だけのことを考えているようで他人のことも考えています。他者の存在があって、はじめて人は特別になれるからです。

 そんな他者性の「特別」に私の苦しみは隠されているような気がするのです。