期待と特別と、そして恋愛観
私とうつ病との争いは、突き詰めると、私と「特別」との戦いそのものなのではないかと思うときがあります。
人は、誰かに期待をします。期待の種類には様々なものがありますが、極端なものに、諦めを伴った期待があります。
自分はあることができない。この先できるようになることもない。自分は何かを持っていない。持つようになることもきっとない。そんな諦めを胸に孕むことからこの期待は始まります。
自分は持っていない。でも自分が欲しい何かを持っている人がいる。将来持つかもしれない人がいる。そんな場合、人は他者に望みを持ちます。本質的に自分には不可能なことを、それが可能な誰かに望むこと。それがいま、私が話すところの期待です。
そんな諦めから生ずる期待は、視点を変えれば、凡なる人間が特別な人間に送る願いのようなものなのかもしれません。
特別という言葉を前にすると私は戸惑います。
特別とは、周りのものと比べてはっきりと突出したもののことを表す言葉だと思います。他と違って優れている。それも格が違っていて、絶対的に秀でている。そんなイメージを持っています。
私は、特別になりたいと思っています。ひょっとしたら自分は特別になれるのではないかと心のどこかできっと思っています。
けれどそれが、おそらく精神の病に関わっています。
私の母は、当然ですが、私より年老いています。若い私と比べたらつぼんだ未来を持っています。それゆえ、母は私に期待します。狭い意味での期待をします。
形は違えど、父もそうでした。
私の両親は、自分たちの諦めを消化しきれないまま、私に期待しました。
自分たちよりも賢くあるように。自由を持てるように。そして、特別な何かであるように。特別になれるかもしれないという気持ちを諦めず抱え続けることを願いました。
両親からもらった期待の種を捨てられないまま、数十年生きてきました。その生き方を選んだのは、自分です。
心の奥底で思っています。私は特別になりたい。突出していたい。秀でていたい。
でも、特別を求めていながらどうしたら自分が特別になれるのか良くわかっていないのです。
私は学問をすることがきっと苦手ではありません。でも決して一番ではありません。学問が苦手な人からみたらもしかしたら私は「特別」なのかもしれません。しかしながら、私は自分のことを一向に特別だと思えません。
たとえオリンピックで銀メダルをとるほど特別な人でも、上には上がいたら自分は特別なのだと思えないのでしょうか? 何かで世界一になっても他の分野で自分よりもすごい人が居たらその人は特別ではないのでしょうか?
特別というのがよくわかりません。
そして、特別に関してもう一つ私を困惑させる要素があります。それは恋人の存在です。
恋人は私にこう話してくれます。「あなたは特別だ」と。でもこのときの特別は私が突出した能力があるという意味ではありません。
むしろ、私は普通の人かもしれない。でも自分にとっては特別だ、と伝えてくれているのです。それは幸せな体験ですが、頭に靄を作ります。
私の友人に「自分は何にも秀でたところがない。だから恋人ができると思えない。自信がない」と言っている人がいます。その人は、ルックスもファッションセンスも知力も間違いなく上の方であるのに、自分が絶対的な特別でないゆえに自信を持てないでいるように見えるのです。
もしかしたら勘違いしているのかもしれません。特別だから恋人を作れる訳ではないのです。むしろ特別でないから恋人同士になったりする。そして徐々にお互いにとっての特別になっていく。恋愛とはそういうものなのではないのかと、今の私は思っています。
話を、私にとっての特別に戻します。
恋人ができると私は戸惑います。それは周りの人から抜きん出た能力である特別さ(絶対的な特別)と、恋人が私という人間を大切に思ってくれる特別さ(個人的な特別さ)が心の中でぶつかり、混濁していくからです。
あるいは、特別な能力もない自分を無条件に愛していてほしい気持ちと、自分はもしかしたら特別な能力を持つ人間かもしれないという気持ちがぶつかり合うからです。
こんなことで苦しくなるくらいだったら認めてしまえばいいのだと思います。「いいじゃないか。こんな平凡な自分を、持たざるものである自分を愛して、大切な時間をともに過ごしてくれる人がいるんだ。絶対的な特別さなんて求めず、望みを捨ててしまえばいい。私は凡人なんだ」と。
でも、それが何故かできないのです。まさに病的なほどに。
重い荷物が入った手提げ袋から手を離してドサリとするのを聴くだけのはずなのに、手が言うことをきかなくなるのです。
もしかしたらうまく折り合いをつけることができるのかもしれません。でもその方法には未だに見つけられません。
もしかしたら、この自己矛盾はうつ病の原因ではないのかもしれません。死にたい気持ちが消えても、不健全な不安に陥らなくなっても、私の心のなかでくすみ続ける呪いなのかもしれません。
「特別」について考えるとき、人は自分だけのことを考えているようで他人のことも考えています。他者の存在があって、はじめて人は特別になれるからです。
そんな他者性の「特別」に私の苦しみは隠されているような気がするのです。